桃花村舞踊公演「重力と愉快」を新国立劇場で見てきた。
田中泯にとって中心とは、ここそこにあるものだ。 脱中心化ではなく、中心の複数化。観客の注目を如何に一つのスポットに集めないか。 だからこれをしっかり見ようと思ったら結構集中力がいる。 昨日は酔っ払って寝たからあまり良く眠れず、とても眠かったけどがんばった。正月にNHKでやってた映像作品の方では 映像作品であるということがあったので、中心がだいたいのカットで一つに絞られていてとても見やすいものだったけど、今回はこれ以後しばらく舞台での公演はしないということで、舞台でできることをできる限り詰め込んだ感じがした。

この公演では重力がメインテーマにあったんだけど、それ以上に越境することということ自体のばかばかしさみたいなものがあった気がする。越境というのはもちろん境がある限り、まれびとを生む装置としてとても有効なんだけど、土に根付いて生活するということの前ではそれは、おおよそ意識するほどのものでもないのだろう。インドネシアでの舞踊で何か思うことがあったんだろうか。縄で舞台が仕切られ、それをとても強く意識しながら、ダンサーたちは踊っていたように思う。最後にその仕切りの縄をみんなで縄跳びするということが重力、越境と通じあっていて、良くできているなぁと感心した。

相変わらずライティングが他のダンサーの公演よりもずっときっちりと、美しく決められている。NHKの映像作品でもライティングは本当に美しかった。前述の縄の前後も光の加減が違っていて縄が一つの区切りとしてあることを示していたり、他にもスポットを同時にいろんなところへ当て、観客の注意を散らすような効果を出していた(もちろんこれは、悪い意味ではない)。田中泯のダンスは外で見ることが多かったので、舞台というものは微妙な光の加減で舞台の奥行きがこれほどまでに深くなるのか。今日の驚きの一つです。

いつも田中泯の踊りを見ていて思うのは、この人は頭が良すぎてやりたいことをわかりやすく伝えすぎてしまうのではないかということ。もちろんこれはダンスなのだけれども、他のダンサーのものよりもだいぶ演劇っぽい。踊りは言葉や演劇ほど共同主観的なものではないし、その意味ではやっぱりわかりにくいんだけど、それでも意味が読み取れるようなダンスっていうのはどうなんだろうなぁ、と思ったりもする。動きそのものの美しさだけでもダンスは十分に成り立つだろうし、動き自体に意味を含ませて伝えようすることを、「現在」において行うということを、田中泯はどう考えているんだろう。ぼく個人としては、からだや動きの美しさそのままのものを(そんなものがあるとすれば、あるいはそんなものがないとしても)、ダンスには求めたい。ただそれでもやっぱり田中泯のダンスは美しいし、とても好きだ。また舞台で見れる日を楽しみにしておこう。

隣と前のおばはんが、公演中にしゃべっていた。うーん、周りのことなんか気にならないくらい、思ったことをすぐにしゃべりたくなるのかなぁ。しかしこればっかりは、どうにかしてほしい。