NFCで『カリガリ博士』と『亜細亜の光』を見る。
カリガリ博士』をじっくりと見たのはこれが初めてになるが、全くカメラが動かないのが逆に気になった。移動もしなければパンすらしない。おそらくこれは、見世物小屋的な映画としての「覗き見る」ということを意識したのではないかな、と思ったりする。映像がレンズの丸い形になってしまうのはこのころの映画ではよくあるが、それだけではなく、映像を丸く仕切っていることがこの映画では結構ある。まるで何かを、壁の穴から「覗き見」しているような感じだ。これは観客という、映画を見る主体を強く意識していなければ絶対に出てこないアイデアなのではないか。「観客が映画を見る」ということは、観客自らがまるで除き穴から見ているような映像の見せ方を通して「反省(Selbstkritik:自己批判とはよく言ったものだ!)」敵意識を彼らに迫るものである。ここでは、反省的意識に置いて累加されるものは自己帰属意識だけではないことにも注目すべきだろう(cf.『世界の共同主観的存在構造』II-1「共同主観性の存在論的基礎」第一節「身体的自我と他在性の次元」 廣松渉 講談社学術文庫)。あるいはベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』で語ったことを思い起こしてみてもいいはずだ。
ドイツ表現主義の映画はダダイズムとの関連でよく語られるが、セットなどの美術だけでなく、当然のことながら、そういう映画の作り方にも大きく影響しているのだなぁ、と実感。ダダイズムモダニズムを強く意識して、その前進を常に続ける「近代」という運動の先には「死」しかないということを強く意識し(故に自らの死までも作品とししてまった作家はデュシャンに限らず、詩人のクラヴァン、アフォリストのヴィシェなど、結構いる)、同時にその「死」を作品の受け手にも強く意識させるものであったが、この映画の作り方や筋書きというのも前進という運動へのアンチと受け取ることも、一つの解釈として可能だろう。
作品の対象化を意識させることというのは廣松渉ベンヤミンが警鐘を鳴らし続けたようなことへの有効な手立てであり、そのような意味でも「見世物小屋」の中のものとして始まった映画がこのような手法を獲得し、さらには大傑作として完成させたという点において、非常に特異である。この作品が、続くドイツ映画の黄金期に先鞭をつけたことは幸せなことだったのだろうと思った。
ここから山岳映画を経て、如何にしてリーフェンシュタールの仕事に至るのか、NFCの「ドイツ・オーストリア映画傑作選」に通って、ちゃんと見てこよう。