行ってきました山形国際ドキュメンタリー映画祭
初めての山形映画祭、幸運にも10/4-11の期間、全ていることができました。
で、印象に残ったものなどを少し。

王兵監督『鳳鳴-中国の記憶』
今回の大賞のロバート&フランシス・フラハティ賞受賞作。なんというか、大賞の選考はこれの一択だったように思う。ほかの全てのコンペ作品を見たわけではないのだけど、相対的にでも大賞を与えられるべき作品は、ぼくの見た限り、圧倒的にこれ。
3時間ほとんどキャメラを固定して同じ構図で、ワンカットが20-30分程度。それ以外のものが映るのはわずか一瞬。和鳳鳴というおばあちゃんが、中国の激動期に自らに降りかかったことを、淡々としゃべる、それだけの映画。本当にそれだけでインタビュー映画を成立させようとさせる意識の持ち方はすごいのだけど、だからといってこれがよかったかと言われると、少なくともぼくは判断を留保したい。構図はおばあちゃんを中心に彼女の居間を少し広めに見せる感じで、ドアなども画面に入り込んでいることから、そこからの映画の展開を期待してもよさそうなのだけど、まったく展開しない。延々と同じ構図で、変化はおきない。『鉄西区』がDVの機動力と安価に長時間撮影することを突き詰めたとすれば、わずか7日間で撮られたこの作品は、DVがフィルム撮影よりも物理的にワンカットを長く撮れる、それを生かすための作品とも言える。その意味でやはりこれは、『鉄西区』からの彼のDVの実験の延長線上にあるはず。しかし『鉄西区』の第三部で王兵をただの石ころのようにしか見ていなかったであろう少年が父親が連行されたときに突如としてキャメラに向かって泣いて訴えるような、時間の厚みがその一点に収斂されてゆくような瞬間、それがこの作品にはなかった。このような瞬間をぼくは好むのだけど、そこら辺が判断の留保の理由。まぁしかし、マイミクのエビちゃん氏が映画祭の期間中よく使っていた、「俗情との結託」(大西巨人だろうか)という言葉とは最もかけ離れていた作品だろう。審査委員長の蓮實氏の選考の基準はおそらくそのようなところにもあったはずだし(というのも、どっかで観客の反応を考慮するかという質問に対して、大衆というものは、安倍前首相への支持を見てもわかるとおり、あてにならん、よってそういうものとは全く関係ないところで選考を行う、と言っていた)、そういった意味でも、これが大賞受賞はまぁ妥当だったのかな。受賞作なしでもよかったような気もするのだけど。あと選評で蓮實氏が選考会議は五時間にわたった、と言っていたのだけど、文学賞の選評や選考会議録みたいに、それを公開してほしい。
ほかのコンペ作品については特に書くことなし。明らかにテレビ的、客寄せパンダ的な作品も散見されたし、全体的に質は低かったように思う。参考までに見た作品を挙げておくと、『アレンテージョ、めぐりあい』(最優秀賞)、『彼女の墓に花をそえるのはわたし』、『リック・ソルト―僕とばあちゃん』、『僧院物語』、『ミスター・ピリペンコと潜水艦』(市民賞)、『革命の歌』。

・アジア千波万波
全然見れなかった。サブ企画ばかり見ていたせいだ。見たのは『ビショル・ブルース』、『バックドロップ・クルディスタン』、『雲の彼方に』(特別賞)の三本のみ。せっかくなのでこの三本についても少し。
市民賞と奨励賞受賞の『バックドロップ・クルディスタン』。あるクルド人家族を難民として受け入れない日本への彼らの抵抗と、それがなんであったのかを知るために監督がトルコへ飛ぶ映画。前半は原一男的なドキュメンタリーで、一般受けはこちらのほうがよいはず。と言っても、原のように被写体のケツを叩くようなことはしないのだけど、それだけで魅力的な被写体の面白い部分を撮るという部分で言えば、同じだ。それはやはりスペクタクルの映画なのだし、これを見て運動に参加した気になって、
それで観客を満足させてしまうような、そういう類のものだった。ここの部分だけ独立させたら、最悪の一本だったようにも思う。だからぼくは、前半部はあくまで導入部であると主張したい。これは、その運動の「傍観者」であった監督の野本氏が、最も近くにいた「傍観者」であったからこそ、彼らとその運動が何であったかを知るために、トルコの中心部からクルド人たちの地域まで出てキャメラを回し続ける。クルド人と同じ国に住む人や、クルド人の共同体の中で生活している場面を撮って、そこで前半部を参照することによって初めて、この映画が面白くなる。前半部のテンションの高さから一歩引いて、あれはなんだったのか、と考えながらトルコでクルドのことをさまざまな人に聞くという、一種の体験の共有みたいなものが、この映画にはあったのではないかな、と思う。
『ビショル・ブルース』は、インド東部のイスラム神秘主義修行僧(フォキル)の語りと歌とを、これもかなり淡々と撮っていた作品。ドキュメンタリーとして面白いか、ということに関して言えば別に、という感じもする。けど、イスラム神秘主義にとっての歌の在り様を少しでも知っていれば、これはかなり面白く見ることが出来るのではないだろうか。ぼくはインド西部以西のカッワーリーまたはそれに類するものしか聴いたことがなかったので、彼らの信仰と歌とを、非常に興味深く見ることが出来た。彼らの信仰はひたすら外へと向かってゆくため、かなり歌自体もそのような、つまりジプシーミュージック的なバイブレーションを持つようなものになったのではないか。ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンに代表されるようなカッワーリーは、それ自体非常に個人と神との合一を目指す内省的な信仰の中で生まれた歌であり、そうであるからこそオペラ的な歌になったのだろうと、この映画を見て思った。そういう意味でちょっとした収穫はあった作品。
『雲の彼方に』は、台湾に住む監督=母と娘、フランスに住む父との三角関係を撮った、ある意味かなり典型的なプライベート・ドキュメンタリー。娘は目の、特に目じりの辺りがフランス人っぽくてその他は東洋系な感じで、まだ2歳くらいながら今後かなりの美人になってゆくこと間違いない。でもぼくはこの映画はだめでした。全然面白く見れなかった。うじうじして、どうにも解決策が見出せない、
その意味で典型的なプライベート・ドキュメンタリー。これを評価する人の意見をぜひ聞いてみたい。ただ、この関係がイヤになっていて娘をフランスへ引き取りたくて仕方ない父親は、娘に嫌われ、ひたすら娘を撮るだけの母親にいらだっているのだけど、最後のシーンで母親のことを「キャメラちゃん」と愛嬌を込めて言い、キャメラにキスをするシーン、あれには少し救われた気がした。

・ドラマティック・サイエンス!〜やまがた科学劇場〜
小品の良作が大量にあり、それをいちいち書いていくとキリがなくなる。ので、フランスの科学映画の泰斗ジャン・パンルヴェの特集と、ドイツはウーファ社の科学映画の特集との比較が面白かったので、そのことを。
やはりフランス人とドイツ人は仲が悪くて当然のような気がした。パンルヴェタツノオトシゴのフォルムの美しさや液晶の色彩の妙を撮って、実は科学啓蒙にほとんど役に立たないような(笑)作品を作るのに対して、ウーファはきっちりかっちり「科学」の映画を撮り、その中からどうしても滲み出してしまうドイツっぽい気持ち悪さがある。別々のプログラムであったし、続けてみることは出来なかったのだけど、やはり国民性みたいなものを、この対比は実感させてくれる。例えばウーファの作品で『レントゲン線』というものがあって、動く人にX線を投射してそれを撮ったりするのだけど、それは今考えるとあまりにもやばいし、なんか気持ち悪い。ただX線がどれだけすごいかはよくわかる。そしてそれをやるのがドイツっぽいところ。パンルヴェは『吸血コウモリ』でムルナウの『ノスフェラトゥ』の映像を引いてきたり、『ウニ』ではウニに人文字ならぬウニ文字をやらせてみたり、よくわからないジョークのようなものをいっぱい散りばめて、きらびやかだ。科学映画一つとってもこれだけ違いが出るのは面白い。あと樋口源一郎の作品は、相変わらずとてもよい。いつ見ても、よい。『真性粘菌の生活史』と『女王蜂の神秘』は何度見ても傑作だと思う。

・交差する過去と現在―ドイツの場合
ドイツのドキュメンタリーは面白くない、そして素晴らしい。まったくスペクタクルというものが入り込む隙がない。このような国民性ゆえに、何かがあると逆の方向に一気に振れてしまう、そんな感じがする(笑)。この企画で10本見た。今回の山形の企画の中で最も多い。ぼくは今回、ドイツ映画を見に行くために山形に行ったようなものではないか、とかなり反省しているけれど今更どうしようもないことだ。
最も面白かったのは『ブラック・ボックス・ジャーマニー』。1989年に暗殺されたドイツ銀行の有力者のヘアハウゼン、その事件の犯人と目された(つまり確証はない)ドイツ赤軍メンバーのグラムス、この二人を周辺の人のインタビューによって浮かび上がらせるのだけど、何が面白いかといえば、この二人の結節点があるようなないような、思わせぶりな見せ方をしておいて、最後にこの二人の関係は、少なくとも現段階において、ない、と言ってしまう点にある。対照的な人生を歩んできたこの二人を結びつけることができれば非常に面白いものになるだろう、という思いは働いてはいるのだろうけど、それでもなおそこをぐっとこらえて違う方向にもっていってくれた。観客の期待を見事に裏切るという点において、この作品が今回の山形で見たものの中で最も素晴らしかった。しかしこの監督の最新作である劇映画の『キック』、ぼくはあまりこの作品を評価しないのだけど、見た人の中でも評価が分かれていた。非常に演劇的に作られた劇映画で、これを映画として見せるというのは、単に演劇だと多くの人に届かないとかそういう理由なのだと思う。だとしたら、もっと映画として作るべきであって、このような形でやるのであればいさぎよく演劇としてほしかったし、ぼくはそれであればとても見てみたい。ただいかにもなドイツ演劇っぽさというのはよく出ていて、「演劇」としてみた場合、ぼくはこれはとても好きになれそうだと思う。
ほかにもYIDFF'99優秀賞の『掃いて、飲み干せ』や『壁』、『人民の愛ゆえに』など良作をたくさん見ることができた。この企画が、今回の山形での、ぼくの最大の収穫だったように思う。