川村記念美術館にて開催中のゲルハルト・リヒター展に行ってきました。
がんばってドイツロマン派の批評理論とかベンヤミンとか1960年代のドイツの情勢とか、いろいろ書きたいところだけれど、他にもやることがあるので簡潔に。


鑑賞者は作品を見るわけだが、彼は何を見ているんだろう。表象されたものとして作品を見ているのか、作品の内部を覗き込んでいるのか、あるいは作品の内部に潜り込んで自らを見ているのだろうか。いずれにしても、見るというコミュニケーションの場においてはわれわれが意識しないずれが生じてくる。そのずれを意識しないでコミュニケーションを続けることはそのコミュケーションを破綻させる恐れがある。ずれていることを意識しさせて、表象として、目の前にある一枚の「作品」として作品を鑑賞者に見せること、リヒターの作品の肝の一つはここにあるのではないだろうか。前にもどこかで書き散らしたけれど、没頭するということ一つの閉鎖系を作り出すことである。唐突だが、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』の中で神谷伸子が降矢木算哲について語っている言葉を引用しよう。「没頭−それが生命の全部であり、遺産や情愛や肉身などと云う瑣事は、あの方の広大無辺な、知的意識の世界にとれば、僅かな塵にしか過ぎないので御座います。」虫太郎はつまり、「広大無辺な、知的意識の世界」="近代"を「没頭」へ繋がるものとして考えているのであろうが、これはおそらくその通りであろう。
ルネサンス以降の近代が一つの犯罪であるとすれば(というより、あらゆる時代は犯罪的であるのだろうが)、「没頭」すること=作品に入り込んむことというのは近代を乗り越えてゆこうとするものが最も避けなくてはならない、対象へのアプローチの仕方ということになる。印象派から抽象表現主義へと貫かれるの二次元平面としての絵画は、偽のリアルである遠近法を捨て、それが「絵画」であることを主張する。リヒターはそれをとても強く意識しているように思える。さらに絵画は写真(家族や友人を撮ったような、所謂「非=芸術」としての写真)でも鏡のような写し絵でもないこと、つまりその場にあるものを切り取ったもの(切り取られたものへと移入しやすいもの)でもないことを宣言するために、超絶技巧によって描かれたスーパーリアリズムの絵画のようなものへ明らかな「揺らぎ」を持ち込もうとする。ここでの「揺らぎ」とはその名の通り、「ボケ・ブレ」のようなものであると思ってもらえばいいだろう(というか、見ればすぐにわかる。ほんとに。)。「揺らぎ」によってわれわれの目の前にあるものが一つの「絵画」で"しか"ないことがはっきりするのだ。
そういったことを現在、もっとも明確に伝えることのできる作家としてゲルハルト・リヒターは、いま生きている作家の中でもっとも重要な作家として位置づけられているのだろう。われわれとコミュニケーションするのは明らかな他者であり、コミュニケーションのためのメディア(言葉、絵画、食物etc.)もわれわれの外部である。そういうこと。これがリヒターの近代へのアンチなのではないだろうか。ドイツ人としての。


でもリヒターの絵は勉強(あるいは俺の肥やし)にはなるけど、
いまいち好きにはなれない。笑