そろそろ美術関係の雑文もひとつのカテゴリにまとめないと。
と思いつつもなんとなく今回も雑記のカテゴリで。


7/30に府中市美術館の
山田正亮の絵画 ー〈静物〉から〈Work〉…そして〈Color〉へ」
の関連企画、林道郎松浦寿夫、本江邦夫の鼎談。
松浦さんと林さんと、両人の山田正亮の絵画の分析から
この鼎談がスタートしたのですが、むちゃくちゃです。
俺は美術理論の授業でも受けに来ているのかと思いました。
二人の話(というか講義)が終わったあと、
府中市美術館館長の本江さんが「もっと一般的な話をしようよ」
、と一言。
美術館はアーティストとその周辺の人たちと
いわゆる一般の普通の人たちとをつなぐ、
ほとんど唯一の架け橋であるから、美術館のギャラリートーク
そういったフォルマリズム的な話をしすぎるのはよくない、
とかそういった旨の発言でした。


本江さんは最終的に自分が落ち着くのは人間主義的な立場だから
(というかそうでもなければ美術館の館長なんかやってられない)
と言っていて、
松浦さんは自身が画家ということもあって、
極端に言えば美術に縁のない人もいる、というような発言をしていた。
山田氏の絵画に関することより、今回の鼎談では
この二人のここの部分のやり取りにもっとも興味をひかれた。


そもそも現代美術において「意味」は存在するのか
(もちろん「意味」がないところに意味がある、というような
メタレベルの話ではなくして)
という問題が根本にあることは確か。
「意味」がないとすればそれは、
殊に戦後の日本においては全てにおいて
あまりにも性急に意味を求めすぎたような面もあって、
それへの警鐘みたいな部分もあるのだろう。
グリーンバーグも絵画への最終的な良し悪しの判断は
趣味判断でしかないことは認めているわけだし。
それによって引き起こされる形式主義
理論で固められた、一部の専門家以外には通じないような
非常に難解なものになってしまう。
グリーンバーグも昔は共産党員だったらしいのだが、
西欧の一般的なマルクス理解、ヒューマニスティックなマルクス主義
やはり何か違うものに思えたからそのこから離れ、
抽象表現主義、主にColor Field派と呼ばれるような人たちの
ための理論を構築していったようにも思える。


とりとめのない文章だけど、俺は松浦さんの立場を支持したいなぁ
しかしやはり美術館がある理由とか考えるとそうもいってられないし。
難しい…


話は変わって山田正亮の絵画について。
彼は近代絵画以降常に対になって語られてきた「風景」「静物」のうち、
「風景」をほとんど書いていない。
書かれるべき「風景」は彼にはなかったのだという。
松浦さんが一言、「吉岡さんの詩の『静物』」ということを言っていた。
ちょっと引用します。


夜はいっそう遠巻きにする
魚のなかに
仮に置かれた
骨たちが
星のある海をぬけだし
皿のうえで
ひそかに解体する
灯りは
他の皿へ移る
そこに生の飢餓は享けつがれる
その皿のくぼみに
最初はかげを
次に卵を呼び入れる   (吉岡実 詩集『静物』より「静物」)


詩集『静物』の中には「静物」と名づけられた詩が
編入っています。これはそのうちの一つ。
画家にとって静物はその配置を自ら決めることができることから
風景よりも絵画的である。
そして山田正亮静物を描くときに実物を目の前に置かないのであるという。
彼は描くべき対象を自らのうちに全て持っていたという点において
吉岡実との対比はとても面白いものだと思った。


以上雑文。眠いので変なところはごめんなさい。