王兵監督「鉄西区」を見る。
DVはドキュメンタリーにどんな新しさを付け加えてくれるのか、それを見せてくれたのが、この映画のもっとも大きな収穫なんではないか。フィルムはやっぱり高価だし、DVよりは機動性に劣ることは確か。ならば安価で機動性の高いDVができることはなんだろうかと考えた時、「撮りながら待つことができる」という一点に尽きるのではないかと思う。ひたすらカメラを回し続けながらその中でにじみ出てくるような何かや、決定的な瞬間を捉えることができる。「ゆきゆきて、神軍」やマイケル・ムーアのような撮り方であればDVは特に必要とされないする気はするし、あるいは小川紳介フレデリック・ワイズマンとも違った、腰を据えないでじっくり撮る(と言うと語弊があるとは思うけど、この書き方はぼくの中ではしっくりくる)ようなやり方が、新しく、この「鉄西区」の中で提出されたように思う。
ワイズマンや小川も、膨大な量のフィルムから映画をつむぎだしていった。ワイズマンはそのどこまでも冷静な目の力で編集を行うことによって作品に作者の刻印を焼きつけ、小川はどこまでも暖かな目で対象に接してゆくことから生まれる編集の仕方で作品に人と地域を焼き付けて行った。王兵も彼らと同じく膨大な量(約300時間)のビデオテープの中から映画をつむぎだしていったのであるが、彼はコミュニティの中には溶け込まず、かといって突き放したようでもない。彼はドラえもんの石ころ帽子をかぶったようにカメラを回し、人々の生活の中まで見せてくれるのだが、できあがった映画はどこまでも冷静である。第三部「鉄路」において、杜洋という若者は犬に向けるような目すらカメラには向けないのだが、拘置所に拘禁されている父杜錫雲を待っている時にふと、カメラを回している王兵に昔の家族の写真を見せ始め、泣き出してしまう。この映像は、小川やワイズマンや、そのほか今までのドキュメンタリストによってはおそらく撮られることがなかったであろう瞬間である。王兵がDVを持つことによって、初めて撮られた形の映像であると思う。この作品が大賞をったYIDFF2003に出品されていた、同じく中国の「350元の子」でも似たような映像はあったが、「鉄西区」ほど冷めてはおらず、子供に寄り添うようにして撮られている。本当に王兵監督は、このような映像をどのように撮ったのかが気になる…
とりあえずこの作品は、DV時代のドキュメンタリーというものに、一つ新しい手法を加えてくれたことは確かで、そのようにして撮られ、一つの地域の、或る時代の崩壊を記録するという意味においても、545分はまったく長いという気はしない。ぼくは昨日朝4時まで部屋で映画を見ていていたのに、12:30から22:55まで、休憩を含めて寝ることができなかった。革新的で、野心に満ち、しかしあくまで冷静ではあるが、人々にカメラをあまり意識されることなく、時代の崩壊に飲まれてゆく姿をしっかりと撮っている。本当にすばらしい作品を見た。今日は一日この映画を見てすごすことできて、よかった。