ドイツ映画に関する雑感〜素人批評もどき〜


ファスビンダーの映画を見るといつも胸糞悪くなる。 でもあれを直視しなきゃいけないんだよなぁ。疲れる。

アテネ・フランセ文化センターでやっている、 「ドイツ映画史縦断」にぼちぼち通ってます。フリッツ・ラングの「M」は面白い上にラング一流の社会批判があって非常によかった。ファスビンダーは映画として見せることを意識しつつ、直視しなくてはならないんだけど出来ることなら避けて通りたいようなことを直接的に映像化するから、見ててものすごく居た堪れない。
ドイツの黄金期の映画はドイツロマン主義から直接的に影響を受けた、イギリスの初期のSF作品に非常に近いものがあると思う。ディストピア的なものがものすごく強く前面に出てくる。以前の日記で書いたように、ぼくは近代を知の断片化とデータベース化として捉えるものであるのだけれど、ドイツでSFやミステリがあまり発展しなかったことと反比例して、(ドイツの周辺国、ポーランドオーストリアチェコなどには奇妙なことにそういった文学作品が存在する)映画においてそういう文化が育ってきたように思う。ダダイズムと関連しながら「カリガリ博士」や「ゴーレム」などの作品が構成主義と呼ばれるような一連のムーヴメントとして顕れてきたことは特にドイツの文化史を見るときに注意すべきだろう。
常にドイツの映画は、H.G.ウェルズカレル・チャペックの作品同様、一歩ひいて、ブレヒトの「異化」のような作用を起こすよう、心がけているように見える。Neue Deutsche Welleの作品群、ヴェンダースヘルツォークにしても彼らはいわゆる映像主義の作家として捉えられがちだが、やはりそのような映像を撮っているという点でヌーヴェル・ヴァーグとは明らかな差異がある。そこにあるのは、国境で分けるのは安易だとわかりつつも、やはり明らかな「ドイツ性」であると、あえて言いたい。その極点としてファスビンダーがいるのである。ドイツのコンテクストが、彼らの映像の中にはあるのだ。「映像の共和国」を目指すのではなく、ドイツ人としての映像を、彼らは撮り続けたのだ。ヘルツォークの「アギーレ」や「フィツカラルド」にしても、あそこにあるのはまぎれもなく「ドイツ性」なのだ。
共同体の解体と、個人のモナド化が思想界でちゃくちゃくと進む中、パゾリーニファスビンダーの持つ地域性、土着性、あるいは「共同体の中の歴史」を再確認することは、いま必要にされていることであると思う。早急に。