ファスビンダーに関連した対談にいってきました@青山ブックセンター本店。
四方田犬彦氏と渋谷哲也氏。
蓮實重彦とその一派は、というかフランスには自らのNationと対峙してきた映画がないとという話が非常に面白かった。ドイツならファスビンダー、イタリアならパゾリーニ、日本なら大島渚が、戦前のことに対する贖罪意識を持ちながらも、現在を攪乱し、動揺させてゆく、そういう意味で非常に「政治的」な作家たちが生まれてきた。蓮實はファスビンダーへの批評もパゾリーニへの批評も行っていないし(行っているのかもしれないがそれを体系的に見せることはまずしない)、大島についても本当に少し触れているだけである。彼らは「映画の共和国」を目指すものであり、映像作品に国境なんて関係ないんだ、という幻想を未だに持ち続けている。その中でファスビンダーが再評価されつつあると言うのは非常に意義あることですね、という話。自らのnationというコンテクストの中でしか生きてこれなかったし、そうでしかありえない自分を如何にして見るかという非常に重要な問題を映像作品にして見せると言うことは、あまりにショッキングで見るに耐えないものでしかない。岩波書店から出版されている『世界文学のフロンティア 第四巻』に収められているファスビンダーの書いた戯曲「塵ゴミ、都会、死」には裕福で地上げを行うヤクザなユダヤ人が出てくる(ちなみにこの作品はダニエル・シュミットが「天使の影」というタイトルで映画化しているが、たぶん世界のどこへ行っても上映禁止だろうとのこと。さらにこの映画を世界でただ唯一評価したのが、ジル・ドゥルーズである点にも留意したい。)。ユダヤ人にもそういうヤクザなやつがいて当然なんだが、それは反ユダヤ的であると糾弾される。ドイツでは戦後、ドイツ人がユダヤ人の前を通る際に注意を払わねばならなかった。日本でも同じように、例えば障害者を見る場合、じろじろ見てはいけませんよ、失礼だから、と言う。失礼だから、と言う言葉で巧みに隠蔽を行いながら、くさいものにふたをしているだけのこの状況をいきなり映像作品として提出すれば批判が出て当然だろう。日本においての在日朝鮮人問題にも似たようなことがいえると思う。在日朝鮮人は、映画の中ではほとんど善玉だ。ファスビンダーはこの嫌な、本当に見たくないものを見せると同時に映像自体異化させ(前の日記で書いたけど)その構造を明らかにするのだが、さらに映画は商業的なものであらねばならぬという至極単純な理由でその映画を見れるものにまで仕立て上げる。つまり映画として見れてしまうのであるが、見たくないものばかりしか見せないのだ。そしてそれを批判する者たちの言説によってまた、その批判のねじれの構造をも暴いてみせる。チャン・イーモウはその道をたどるかに見えて挫折してしまった。「初恋の来た道」には、かつてのチャンの面影はまったく見られない。中国共産党の御用理論家たちがファスビンダーのようなことを行うチャンに対し、「家の汚い洗濯物をわざわざ外の人に見せている」という、サイードナショナリズムとを最低な具合に混ぜ合わせた理論によって潰してしまったのだ。サイードオリエンタリズムは確かに古い感は否めないが、それでもこのように利用されるのは非常に危険だ。nationの中のracismの問題にもっと対峙していかなくては。そうしなくては、それこそ小林よしのりのような言説がまかり通ってしまうのだ。映像作家、特にドキュメンタリーが貢献できるのはまさにこういう時ではないのだろうか。「自転車で行こう」はそういう意味で最低の映画だ。新しい、ファスビンダーや初期の大島渚のようなドキュメンタリー作家が出てくることを切に願ってやまない。
ドイツ映画を専門に研究している人は、日本に10人程度しかいない、とドイツ映画研究家の渋谷氏は言っていた。各地域のnationというコンテクスの中で映画を見ると言うことが期待される中で、こんな状況ではどうしようもない。イタリア映画にいたっては4人であるという。「映画の共和国」を打ち破るための人々が出てくることは必要だろう。これこそがゴダールが言っていた「映画の政治化」のゴダールがまったくできていない側面であるのだから。