「異化」について雑文。
ファスビンダーの映画、「Martha」において徹底されているのは、
観客たちをいかに画面の中の人物たちから遠く離れさせるか、である。
スクリーンというフレームの中にもうひとつ枠を設け、
われわれの視線は常に邪魔をされる。
あるいは二人が中心となるシーンでは、必ず第三者の目がある。
さらには徹底的に形式的であるということ、
つまりあまりにも型にはまりすぎた登場人物や設定が多いこと。
ベルトルト・ブレヒトの作り出した「異化」という演技術は、
ハリウッドにおいてはアクターズ・スクールで用いられる、
その役の中に入り込むスタニスワフスキー・システムと対置されるが、
その異化効果によって知的な作業を観客に強いることが、
ファスビンダーの狙いの一つであったかもしれない。
観客は常に画面の外にいることを強く意識させられ、
その結果、虚構を虚構として、映像に対峙することができる。
映像の外にいることを強く意識することで何が生まれるか。
それは観客の批評的態度である。
映画そのものに対し我々は外挿的にしか関れないことを知り、
映像作品の限界を知ることによってはじめて、
ベンヤミンの言う芸術の政治化を目論むことができるのであろう。


ちなみにこの「Martha」、日本語版未発売ですが、
レールを敷いて内側を向きながら360度移動という、
CG全盛の現代によく使われるこの技法が
初めて使われたのがこの映画だそうです。