映画『マリア・ブラウンの結婚』は既に何度か見たものなのですが、それでも新しい発見が幾つか。というよりきっと、見直すたびに何かしらあるのだろうけど。音の使い方の不自然さが、今回は非常に印象に残りました。いきなりバシャーン、と音楽が鳴るわりに、そこまで大げさな場面転換などが起こるわけでもなく、「俗っぽさ」をものすごく感じました。他にも細かいところで幾つか面白い発見があったり。いつ見ても非常に疲れる映画なので、見れる機会に見ておかないと、自発的にはなかなか、ね。


 で、演劇の方ですが、これはとても面白かった。もともと演劇を多くは見ていないので演劇に関する云々、というのはぼくはあまりできないのですが、感想文でも書いておこうと思います。あらすじとかはめんどくさいから書かないので、興味持ったら論創社から出ている「ドイツ現代戯曲選」の『ブレーメンの自由』を買って読むことをお薦めしときます。以下ネタバレ注意です。もっとも、大したことは書けないですが(苦笑)
 今回の上演は舞台に大道具小道具そのほかを全く置かないで、俳優の体と三つないし四つの譜面台に置かれた台本とだけが舞台の上にあるようなリーディング公演でした。スタニスワフスキーシステムのような、俳優にも観客にも舞台への感情移入を求めるような演出方法にはこれはあまり合わないように思うのですが、異化的な効果を狙うのであれば非常に効果的な演出ではないかな、というふうに思いました。ファスビンダーブレヒト的な異化とは多少違うやり方で異化効果を狙っている、という話を上演のあとで渋谷先生がおっしゃっていましたけど、そういう意味でもこの演出はとてもよかったです。あと、暗転と暗転との間に一度、主役の女性が舞台の上になぜか置かれてあった水を飲むためだけに、舞台に上がりました。これも演出の一環なのだろうけど、どういう意味があったんだろう。そこが明らかに舞台であることを強調するためだけに上がったのだろうか。そこまでやる必要が…? うーむ、ここはちょっと謎でした。あと俳優さんのしゃべり方、特に最初の方での主役の女性のしゃべり方などが非常に不自然で、これも異化的な効果を狙ったものだと思います。あくまで「フィクション」にこだわり続けるファスビンダー的なやり方ですね。
 まず上演に先駆けての注意事項の説明のときに、一緒に女優さんが一人出てきて化粧をし始めます。これはたぶん、彼女が「女性」である(もしくは「女」になる)ということのメタファーか何かなのでしょうか。この『ブレーメンの自由』という戯曲のテーマからすると、そんな感じがしてなりません。この戯曲は女性が男性的な支配の秩序から抜け出し、暴走し、最後には捕まる、という話なのですが、渋谷先生もおっしゃっていたように、某政治化が「産む機械」とかなんとか言っていたことを思えば非常にタイムリーでした。ファスビンダーの態度はフェミニズムに一定の理解を示しつつも、あくまでそこへの批判も忘れない点で、政治的にはどこからも嫌われる性格のものであると思います。これは「市民悲劇」である、と渋谷さんが『ブレーメンの自由』の解説で書いていましたが、ポリティカルコネクトとしてある言説が、日常的なレベル(日常は「いつもの日の続き」であり、いつだって保守的です)においてはまだまだ論争を呼ぶものであるのですが、そういうギャップから生まれてくる悲劇が、この「ブレーメンの自由」の中心テーマの一つ、というかファスビンダーの中心のテーマの一つなのでしょう。あくまでこれを、感情移入を排した異化的な演劇として抉り出すことによって、われわれにまざまざと見せ付ける、いやったらしいったらありゃしない(笑) 異化的であることによってわれわれはこのことを、自覚せざるを得なくなってしまうのですから。そこでまた、冒頭に主役を演じる女性が化粧をしていたことの意味が生きてくるのだと思います。終演後にこのことを思い出すことで、女性であることの意味をわれわれに考えさせるような意味を持っているように思いました。
 そういう点であまり日本では行われてこなかったファスビンダーの戯曲の上演を企画し、その意図をみごとに演出し、演じ、観客に提示して見せた青年団の今回の上演は素晴らしいものだったと思います。いやぁ、見に行ってよかったです。


 渋谷さんの講演も、ぼくの取ったメモを元にちょっと再構成して書いておきます。できるだけ彼の話した順に書いていこうとは思いますが、あくまでぼくが再構成したものであることを考慮に入れて読んでもらいたいです。また、註はぼくがつけた注釈であって、渋谷先生がおっしゃったことではありません。
 もともと戦後におけるドイツの演劇は、ナチ支配からの反動で、過度の感情移入を嫌う傾向にあった(註1)。もちろんそれ以前からブレヒトの演劇はあったのだけど、ファスビンダーブレヒト的ではないやり方で異化を行ってみせた。ブレヒトはその作品の中での社会的な構造を詳細に示し、その問題点を明らかにし、その上でその回答を示すと言う非常に知的で教科書的なやり方で異化を行うのだが、ファスビンダーはあくまで書かれたものが「虚構」であることを強調することによって異化を実現する(註2)。『ブレーメンの自由』においての男性上位の時代からの女性の自立という問題を、生々しいと言うか、気持ち悪いまでの強調によって際立たせると同時に、それがあくまで虚構であることも主張している。またそれに対して積極的な解決策を全く示そうともしない、というところから、問題意識を持ちつつも、その問題そのものとこの場合であれば女性が自立することによる問題との両方の負の側面を強く意識させるものである。
 ファスビンダーの作品に対する違和感というのは、二つの点から言及することができる。一つは、ブレヒトのようにその作品を取り巻く環境を意識させない点、もう一つは描かれているのは日常の情景のはずなのに、それを受け取る感じとしては非常に非-日常的である点である。前者は前段落で述べたようにしてあるのだが、後者はあくまでファスビンダーが作品の構造を知的に示すようにして作品を作るのではなく、人間の感情的な面に焦点を当てつつも、それをずらしていくことからくるものである。まずポリティカルコネクトという「正論」を日常に持ち込むことによる悲劇がある。ファスビンダーが描くのは人々のプライベートな側面での、そのようないろいろな厄介ごとである。その日常に持ち込まれたポリティカルコネクトが引き起こす戦いを、非常にミニマルに見せることで、日常的な繰り返しとその差異を強調するようにして作品を提示して見せるのだ。
 ファスビンダーは日本では一般的に映画監督だと思われているが、ドイツでは映画人としてはもちろんだが、それと同時に演劇人としても知られている。映画はその特性上、そこにあるものを撮影することによって具体的な文脈が見えすぎてしまう、ということが言える。ファスビンダーの「市民悲劇」の持つある種の普遍的な抽象性は、演劇という、何かをそのまま写し取るのではない、圧倒的な「フィクション」によってこそ、その本懐を垣間見ることができる、ということが言えるだろう。彼の戯曲での台詞の作り方は、台詞の細かな言い換えに関してはあまりうるさく言うやりのではなく、細かいなディティールを持たずに、いつでも時代に併せて変更可能なやり方で行われている。その意味で彼の舞台に必要なのは、俳優の身体と声だけなのである。
 彼の態度はアンチ-ビルドゥングス・ロマンということが言えるだろう。彼にとっては「人間は成長しない」のだ。ミニマル的に延々と堂々巡りをし続ける人たちを作り続けてきたということが言えるだろう。例えば今回の『ブレーメンの自由』で言えば、主人公であるゲーシェは口では「いろいろ仕事も経営も覚えて、わたしは成長した」とは言うものの、しかし彼女の行うことは同じことの繰り返しであるし、非-成長的、自閉的にしか見えない。彼女の態度はそこから非常に欝病的に見え、そこにファスビンダーの感情的なものへの接近が見て取れるのであるが、逆説的な言い方ではあるが、それは同時に観客が感情移入しにくくなる理由の一つでもあるはずだ。つまりファスビンダーブレヒトのような知的な方法ではなく、頭を使わせないで異化を行ってみせたのだ。しかしまた、ただ単に頭を使わせないで鬱々とした作品を見せたのでは人は全く面白がらず、いやな感じだけが残るのだろうが、彼は自らの作品にスペクタクル的な要素を非常にうまく取り込んでいる。彼はメジャーなものを作れるマイナー作家であるのだ。更に、彼は作品を量産することで観客にそれを常に提示し続けられた、という点でも、メジャーに非常にうまく使えていただろう。彼ほど、メジャーであることとマイナーであることの両方を上手く取り入れていた作家は世界を見渡してもあまりいるものではなく、その意味でもファスビンダーの作品を演じ、見ることはとても重要であるはずだ。


1:このことはベンヤミンの言う「政治の耽美化」を思い出してもらえれば、感情移入が全体主義的なものをある程度含んでしまう危険性を持っていることがわかると思います。
2:これは60年代後半から活躍し始めた土本典昭小川紳介ら、日本のドキュメンタリストにも通じる態度のように思います。またドキュメンタリストの森達也の著作である『ドキュメンタリーは嘘をつく』というタイトルでも、ドキュメンタリストがこのことを非常に意識していることがわかります。