TONKATSU2005-09-12

去る10日に松岡正剛の「空海の編集術」というタイトルの
公演を聞きに文京シビックホールまで行ってまいりました。
やっぱり華厳ですよね。
顕教の最高の境地で、密教・禅へ入り口です。

 まず「事法界」がある。現象の世界というもので、現に存在しているあらゆる事物や事実がそこに見えている。一個一個と自己をつなげることはできるが、これらは一見バラバラである。この段階は小乗仏教思想の全般と大乗仏教思想の相始教があてはまる。
 ついでよく目を凝らしてみると、「理法界」が見えてくる。理法界は理性が見る世界ともいうべきもので、いったん空じて世界を見ていることにあたる。すなわち仏教的には中観あるいは空観にあたる。もっとも、空というのは何かを意識や解釈が空じようとするということであるから、ここには関係の現象学が全面化したとみるべきなのである。かつてシチェルバトスコイは「空」を英訳するにあたって“relativity”を選んだものだったが、まさにそうなのである。すべてはここで関係化はされうる。
<中略>
 「理事無礙法界」という世界の見え方で、ここに華厳経の最も重要な「無礙」(むげ)があらわれる。無礙とは疵(礙)のない鏡面のようなメタファーであって、その無礙によって世界の事と理を見ようというもので、鏡面だからそこには向こう側の事も頭の中の理も映る。いや、映りあう。これがいよいよ「一即多」と「相移即入」の方法の面目躍如するところで、世界は劇的にかつダイナミックに理事が溶けあってくる。
 この見え方は、仏教史的には如来蔵の「随縁」という見方を敷延して先鋭化したところなのであるのだが、ここでとくに重視するべきことがある。それは、仏教ではしきりに真如ということを言うのだが、その真如が次々にいろいろなものを随縁して「方法」そのものになるという抜群の思索が華厳では展開されているところであった。ぼくはかつて、この、わかりやすくいうなら「理解はやがて方法になっていく」という“発見”に、どれほど衝撃的な示唆をうけたことだったか。
 けれども深遠無辺な華厳世界観はこれでもまだ終わらない。「理事無礙法界」からさらに「事事無礙法界」に進むのだ。
 事事無礙法界は事物や事実や現象の性起そのものすら無礙になっていくという世界の見え方で、ここからはヨーロッパの哲学のいっさいが届かない。なぜなら、結果に囚われないだけでなく、原因に対する見方も消えて、理性はすべて消失し、ただすべてがあたかも最初期の存在のようにありのままにつながりあってしまうからである。しかも、このように見えたからといって、それは原始世界のつながりが復活したのではなく(それならヨーロッパ的な思索が発見したアニミズムでも説明がつくが)、そういうのではなく、見方そのものが方法的に驚くべき相互浸透によって深くなっていて、方法と世界との区別さえつかなくなっていくことなのである。
松岡正剛の千夜千冊、高銀『華厳経http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0681.html


えーと、すごいです。
合宿中の勉強会でもライプニッツ空海と華厳とホワイトヘッドとを
全部ごった煮にした発表があったのですが、
時宜に適ったというかシンクロニシティというか。
ここまで言われたら華厳経読まなくちゃな。まだ未読。


19日には新国立劇場でシンポジウムに行きます。
松岡正剛(コーディネーター)、天児牛大梅若六郎 
木佐貫邦子、高田みどり、勅使川原三郎、毛利臣男
この面子をよく集めたなぁ。けんかするだろこいつら。
さすが松岡正剛というかなんと言うか。たのしみ。